日本建国通史

日本の建国について、4次元俯瞰という考え方を使って考察します。

055 日本建国後記1

 7世紀の終わりから8世紀の初めにかけて日本が建国された経過を見てきました。4次元俯瞰では人々がなぜ移動するのかということに着目しました。建国通史はこのあたりで筆を置くつもりですが、いくつかのトピックスを付け足しておきたいと思います。

 この時点の日本列島を見渡すと、縄文人は衰退から少しずつ立ち直りの兆しを見せています。東北地方を中心に、北海道から本州の山間部、九州南部などに集落を維持しています。8世紀末から9世紀にかけて活躍した蝦夷の族長阿弖流為アテルイ)の名は歴史に刻まれています。朝廷を散々悩ましますが、部族の安寧を願って投降します。宿敵坂上田村麻呂の助命嘆願も虚しく京の都で処刑されます。京都の清水寺の拝観道に立派な石碑が建っているのでご覧になった方もおられると思います。九州南部の隼人を縄文系と見る向きもあります。

 弥生人については、稲作や製塩、製糸、製鉄などの技術を継承して生産力を拡大し、その間人口は増え続け500万人近くに達しています。漢字漢文に通じて高度な役割分業体制を構築、平均的に高い知性を有しています。しかしながら彼らは難民であり、元々力による統治ということには関心がありません。本州の日本海側、関東平野から以西の太平洋側、瀬戸内沿いなど平野部の広い範囲に集落が分布しています。この時点で日本全体の総人口の9割ほどは弥生人です。

 朝鮮半島からの渡来人も次第に増加して徐々に日本の支配層を形成します。彼らは鉄製の武器を使用し、力による統治のプロ集団です。百済からは対馬経由で北九州へ、新羅からは隠岐の島経由出雲丹後へと渡来しています。一方これまで日本建国にほとんど関わっていない高句麗(高麗)からも能登半島経由で越後あたりへ渡来しています。

 701年に大宝律令が制定され、710年に平城京が開かれて、このあたりから教科書的には奈良時代と称されます。ナラは朝鮮語で国を意味しますので国家というものが意識されました。天武系の長屋王の抵抗や、聖武天皇の不可解な相次ぐ遷都などがありますが、徐々に藤原氏が実権を握っていきます。権力の及ぶ範囲は九州から瀬戸内、山陰、北陸、近畿、東海あたりまで拡大していますが、高麗人が力を持っている関東などは支配が及んでいるとは言えません。奈良時代から平安時代にかけては、仏教文化を中心に文学なども大きく花開いて絢爛豪華な貴族社会ができました。

 しかしながら、この間軍事力の整備はほとんどなされていません。どういうことなんでしょうか。中央政府には軍事を司る大きな組織はありません。地方の豪族が私兵を抱えるという形です。このことはその後の日本国の歴史を語る上で極めて重要なポイントです。

 さて、平安時代は名実ともに藤原王朝ですが、徐々に国体を揺さぶる大きな変化が生じてきます。つまり、武士の台頭です。空白になっていた軍事力という国家の根幹に関わる部分を埋める役割を担うのです。武士はいったいどこから来たのでしょうか。もうお分かりのことと思いますが、そうです、彼らは主として高句麗系渡来人の末裔です。高句麗人は元を質せば中国北方系の遊牧騎馬民族です。馬術や武芸に秀でています。戦後の古代史学界に波紋を広げた江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説というのがあります。江上氏の説はヤマト王朝は朝鮮渡来の騎馬民族によって打ち立てられたというものですが、現在では支持者は少数です。実は、騎馬民族が打ち立てたのはヤマト王朝ではなく、鎌倉幕府だったのです。そのへんのところをもう少し見てみましょう。

 ・・・つづく

054 日本書紀5

 巻十七の継体天皇の出自ははっきりしません。新たな王朝という解釈が主流になりつつあります。しかしながら、日本書紀全体が様々な王統を寄せ集めて編集されているので、系図を詮索してみてもあまり意味があるとは思えません。継体天皇の治世は朝鮮半島の経営もうまくいかず、九州で磐井の乱が起きたりして、内憂外患を伝えています。その中で物部氏磐井の乱を鎮圧した部分は史実に触れてます。一方、継体天皇は北陸から南下して飛鳥に入っているので出雲蘇我系であり、物部氏との接点は考えられません。

 巻十九の欽明天皇の代になると、いよいよ蘇我氏が台頭し守旧派とされる物部氏との対立が激化します。全体的には継体天皇以降は、飛鳥の蘇我王朝をモデルにした創作と考えられます。古くからの豪族とされる葛城氏や大伴氏なども同じグループかと考えられます。厩戸皇子つまり聖徳太子が大王として活躍した時代が蘇我王朝の最盛期と言えます。日本書紀聖徳太子天皇としなかった理由についてはもう少し研究が必要かと思います。推古天皇については影が薄い感じです。中国の史書ではこの時代の王は男性と記しているようです。聖徳太子の王統はその後すべて断絶します。

 巻二十四の皇極天皇では乙巳の変が詳述されています。中大兄皇子中臣鎌足らによるクーデターによって、権力の中枢は蘇我氏から再び百済系の物部氏へ、さらに同じ出自の新進気鋭の藤原氏へと移ります。もちろん権力交代は巧みに隠蔽されて、巻二十五の孝徳天皇の時代には大化の改新として国家体制が整備されていく様子を記します。また、相変わらず朝鮮半島との往来は活発ですが、ついに故国百済は唐・新羅連合軍に敗れて滅亡してしまいます。国家再興を願う百済の遺臣の求めに応じて援軍を派遣しますが、白村江で大敗します。これは史実です。中大兄皇子天智天皇として即位しますが(巻二十七)すでに政権に勢いはありません。

 巻二十八では壬申の乱を詳述します。史実は新羅出雲系の豪族の支援を得た大海人皇子が勝利し、蘇我氏復権します。そのようなことはすべて隠蔽されます。しかしながら、日本書紀編纂の直前の出来事なので、どのように記して辻褄を合わせるか、また有力者の納得を得られるかとても苦心しています。大海人皇子天智天皇の弟としたのは多少無理筋ですが、編者の知恵が発揮されています。

 巻二十九では大海人皇子が即位して天武天皇が誕生したことを記します。一転して新羅との往来が増えています。巻三十の持統天皇は、天智天皇の娘で天武天皇の妃という設定がなされましたが、これも編者の知恵です。日本を二分してきた百済系と新羅系豪族の融和が示唆されます。統一政権の誕生によって、律令国家としての基盤が整備されました。その後政権内の力関係は、徐々に百済系へと傾き、中でも藤原氏の台頭が顕著となります。都は藤原京へと遷都されます。

 古事記推古天皇で終わり、日本書紀持統天皇で終わっています。この間約70年ですが、日本建国と言うに相応しい出来事が続きました。さて、編纂1300年を経過した日本書紀の研究は近年益々盛んになっています。また、日本書紀に始まる続日本紀や日本後記など六国史は古代の正史ということで同じく研究対象です。しかしながら、日本書紀は歴史ではなく壮大な物語であり、意図を持って創作されたものであるという視点は欠かすことができないと思います。なお、日本書紀を除く六国史の編者はすべて藤原氏です。もちろん日本書紀の実質編者は藤原不比等です。以上が4次元俯瞰で見てきた史実と見比べながら眺めてみた日本書紀ということになります。寄り道はこのあたりにしておきます。

 ・・・つづく

053 日本書紀4

 中国の史書では、邪馬台国のあと150年の空白を経て「倭の五王」の話が続きます。150年の空白をどのように解釈するか、また讃珍済興武を日本書紀の歴代天皇にどのように比定するかは、古代史研究の一大テーマとなっています。五王は1世紀近くに亘ってたびたび中国に朝貢します。何とか覇権を認めてもらいたいという強い思いがあります。巻十は応神天皇で、概ね讃に比定されています。4次元俯瞰で当時を眺めてみると、讃は新倭国の国王です。

 邪馬台国や奴国など北九州の弥生人集落の連合国家として中国に認識されていた旧倭国。一方朝鮮半島では三国の覇権争いが激しくなり、広開土王碑に記されているような戦乱が続いていました。多くの難民や戦いに敗れた王族貴族が日本列島に押し寄せました。百済からの難民や貴族は対馬経由北九州に渡来しています。鉄製の武器などを有する彼らは旧倭国との戦いを有利に進め、政権交代を実現します。新倭国の国王は政権基盤を固めるために中国に盛んに朝貢します。応神天皇は筑紫で生まれています。

 日本書紀で気になる点はとしては、朝鮮半島つまり百済新羅に関わる記事が極めて多いということです。すぐ隣で起きているような感じです。もちろん上から目線で書かれています。不祥事を起こしたので懲らしめた、というような。また、記されている地名を現在の地名に結び付けて考えようとする研究もありますが、逆に日本書紀の地名を日本各地の地名に振り当てたと考えても何ら支障はありません。編者にとっては朝鮮半島や北九州の土地勘はあっても、大和地方周辺の土地勘はほとんどないと言っていいでしょう。

 巻十四の雄略天皇は五王の武に比定され、古事記日本書紀ではワカタケルと記されています。つまり、倭王武雄略天皇=ワカタケルという公式が作られました。一方でワカタケルについては考古学上の大発見があります。埼玉県の稲荷山古墳で発見された鉄剣と、熊本県江田船山古墳で発見された鉄刀です。それらには古代史に関わる数少ない文字情報があります。最重要史料として貴重です。そうは言うものの、漢委奴国王の金印が福岡県の志賀島で発見されたから奴国はその近辺というような単純な発想では古代史の謎は解けません。様々な可能性を探るべきです。江田船山は新倭国の領域と見られますが、稲荷山はあまりにも遠いので鉄剣がどこで作られどのような経路を辿って行き着いたのか想像もできません。これからの調査と推理が俟たれます。

 奈良県天理市石上神宮に伝わる七支刀も極めて重要な史料で様々な解釈があります。4次元俯瞰では、百済から新倭国へ、物部王朝の東征を経て分家の石上氏に伝来したという一貫した解釈が可能です。さて、巻十六の武烈天皇は一つの善行も無く悪事の限りを尽くしたとされていますが、それでも皇統に連なるというところは理解に苦しみます。ここで倭の五王の王統は断絶します。

 ・・・つづく

052 日本書紀3

 日本書紀は「一書に曰く」という言い方で、様々な伝聞情報を取り扱っています。神代で注目したいのはスサノオの出自を新羅と言っている伝聞です。古事記ではスサノオの子孫である大国主命を英雄として様々なエピソードを取り上げていますが、日本書紀ではほとんど無視しています。日本書紀の編者としてはスサノオの出自には関心はありませんが、でも完黙は無理でした。アマテラスが本命で、スサノオは対抗というかできれば触れたくはありません。しかしながら壬申の乱の勝者である新羅系の勢力を蔑ろにすることはできません。国譲りという怪しげな解決策を提示したのは双方への配慮で腐心した点です。

 古事記に倣って、アマテラスの出自については神話の世界で語ることにしました。天孫降臨を九州南部としたのは、その後の展開に欠かせないところです。史実としては、朝鮮半島百済から北九州に渡来して南征、次々と弥生人の集落を傘下に収めていきます。実質的な倭国政権交代です。そのあたりのことはすべて伏せて、神武東征へと続きます。なぜ東へ向かったかについては、良い国があるということのようですが根拠としては薄弱です。唐・新羅連合軍の脅威から少しでも遠くに逃げ延びようとした、という方が説得力がありそうです。東征という言葉のイメージとは大きくかけ離れます。

 瀬戸内海を東に進んで大阪湾に入り河内辺りに上陸します。その先は蘇我氏の勢力圏です。琵琶湖伝いに南下して飛鳥に都を築いているので、進むことができません。日本書紀では長髄彦ナガスネヒコ)らの抵抗に遭って迂回せざるを得ない様子が詳しく述べられています。当時は脚長はイメージが悪いようです。苦労の末にこれらの勢力を掃討してやっと大和に入ることができました。大物主の神の娘を妃とします。大国主や大物主は出雲蘇我系です。ここでも物部氏蘇我氏、つまり百済新羅の融和策が透けて見えます。

 続く欠史八代については姻戚関係が記されているだけで事績はほとんどありません。巻五の崇神天皇からは少しずつ事績が綴られます。垂仁天皇の巻六では新羅など海外との交流について記しています。巻七の景行天皇では何と言ってもヤマトタケルです。ヤマトタケルについては古事記では乱暴者というか残虐な印象を受けますが、日本書紀では父親の景行天皇にとって頼もしい自慢の息子というところです。荒唐無稽であっても日本統一の立役者に仕立て上げました。熊襲征討では、途中戦闘で百姓に危害が及ばないようにという配慮がありますが、コメなどの生産者である先住の弥生人を百姓と称して敬意を表しています。百姓という字はオオミタカラと読みます。熊襲は古くから九州南部に居住する縄文系でしょうか。

 巻八の仲哀天皇でも熊襲征討の話が続きます。仲哀天皇が謎の突然死を遂げたあと、颯爽と妃の神功皇后が登場します。巻九は彼女の話で埋め尽くされ、矛先は新羅へと向かいます。新羅百済高句麗を服属させて「三韓征伐」ということですが、史実は真逆で高句麗新羅から追われて逃げ延びてきた百済の王族だということを隠蔽します。また、天皇ではない皇后の事績を詳述しているのは、卑弥呼あるいは台与との関連を匂わせています。中国の史書との辻褄を考慮してのことです。神功皇后は、後に比売大神(ヒメオオカミ)を祀る宇佐神宮に合祀されます。大倭あるいは大和をヤマトと発音するようになるのは、邪馬台国に由来します。日向から九州東岸を北上するというストーリーは、そこが邪馬台国の支配地であることを示唆します。

 ・・・つづく

閑話ニャン題(7)

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今日は冬至ニャン。そうしてクリスマス、正月と続くようだ。吾輩の目からすると、1月1日ほど意味のない日はないニャ。どうせ吾輩のお世話係もどういう日かは知らないはずだ。太陽暦を採用するのなら、今日こそ1月1日にすべきだニャ。それに正月ではなく、正日が正しい。これから日が長くなるわけだし。太陰暦の正月は、もちろん新月の日に決まっとる。正月に長い休みを取って大騒ぎするのは日本だけ。欧米はクリスマスを祝い、アジア各国は旧暦の正月を祝う。それぞれ意味ある日だし。日本もどちらかにしたらどうニャ~・・・

051 日本書紀2

 澤田瞳子氏の大作「日輪の腑」は、大宝律令編纂に並々ならぬ執念を燃やす持統天皇と、その周辺に巡る新旧勢力の確執を壮大なスケールで描いています。701年大宝律令が施行されるのは、持統天皇が譲位して文武天皇が即位した時代ですが、持統は初の太上天皇上皇)として引き続き君臨します。ここで守旧派として描かれているのは、壬申の乱の功臣達豪族です。4次元俯瞰で紐解くと、つまり天武天皇を支えた新羅系出雲のグループです。一方、進歩派は中国文化に精通した藤原不比等など百済系物部のグループということになります。

 大宝律令の制定は国家機構の中央集権化と政権安定化を進める上で欠かせません。ハード面の大宝律令、ソフト面の日本書紀。この両輪が日本建国を推し進めることになりました。国号が定まったのもこの時代としています。藤原不比等はこの両輪に関わり、権力掌握を確立するためのプロセスを着実に進めることになります。一方、持統上皇律令制定後吉野から三河へ長旅に出ています。壬申の乱天武天皇側に加担した新羅系豪族たちを労って権力のバランスを図ろうとしているかのようです。新羅系と百済系の融和を進める上で絶妙の感覚と言えるでしょう。

 日本書紀は全30巻から成り、巻一~巻二は神話の世界の話、巻三の神武天皇から巻三十の持統天皇までは各天皇の事績を詳しく記しています。ただし巻九では神功皇后の事績を記しています。天皇以外の登場はここだけですので異例です。何やら意図的ですね。

 さて、古事記日本書紀は教科書では記紀として一体化して語られていますが、読み比べてみると内容はずいぶんと違っています。もちろん、そのことに立ち入って論じようとは思いません。気になる点をいくつか記してお茶を濁したいと思います。日本書紀が日本という漢字を当てているということは最初に指摘してみたい点です。当時どのように発音していたかは分かりませんが、国名として意識されていたということです。この点は「日輪の腑」の言い分と符合します。

 教科書的には、天武天皇天皇の称号と日本という国名を定めたということになっていますがどうしても疑問があります。特に、古事記に日本という国名に触れていないのは致命的です。また天武天皇日本書紀編纂の過程に関わることなく亡くなっているので、国名制定と天武天皇を結び付けるのは無理がありそうです。では日本という国名を誰が考えたのでしょうか。

 2011年10月22日の朝日新聞は、678年に制作された百済人武将の墓誌に「日本」という文字が記されているという中国の研究について報じています。4次元俯瞰と重ね合わせると、日本という国名は物部氏あるいは藤原氏によって百済から持ち込まれたという推理が成り立ちます。時期的にも辻褄が合います。なお、日本を倭あるいは大和と同じくヤマトと読んで、4世紀あたりからヤマト政権があって、日本国も古くからあるかのように見せかけようとするのは後世の知恵です。寄り道をしましたが、もう少し日本書紀について考えを進めます。

 ・・・つづく

閑話ニャン題(6)

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吾輩のお世話係は、もう師走だというのにいつまで駄作を作り続けているのニャー。だいぶペースダウンしておるようじゃが、いい加減にしてもらいたい。欠伸が止まらない。年末ともなれば、吾輩は寝る暇もないほど、寝るのに忙しいニャー・・・ムニャムニャ・・・