日本建国通史

日本の建国について、4次元俯瞰という考え方を使って考察します。

024 弥生時代6 奴国

 残念ながら弥生時代の文献史料は残っていませんが、4次元俯瞰によって概観することが可能です。弥生時代は、紀元前5世紀ごろから主として中国からの難民によって徐々に始まり、紀元前217年の徐福が率いる大船団によって革命的に開花しました。「徐福革命」と称しても良いでしょう。日本の人口は一時10万人を切り減少傾向にありましたが、西日本を中心に増加に転じました。その後も、中国からの難民が続き、また、朝鮮半島済州島などからも少しずつ人々がやってきました。それらの人々は弥生人として、新たな日本を築いていきました。

 一方、東北地方や本州の内陸、南九州、沖縄などは引き続き縄文人が生活していました。その後、1000年くらいの間に縄文人弥生人の混血が進み、日本人を形成していったことが見て取れます。徐福は紀元前208年に亡くなっていますが、その後も徐福集団は佐賀地方を中心に目覚ましい発展を遂げています。

 徐福の時代から300年近くを経て、九州地方には数万人の人口を擁するいくつかの集落、つまり国ができてきました。現在でも人口増加率が年2,3%を超える国は、発展途上国を中心に多くありますが、日本に上陸した3000人を超える徐福集団が、毎年3%の人口増加を続けると、計算上は300年後には約200万人になります。これは、弥生後期の日本の人口にほぼ匹敵します。徐福革命のインパクトはそれくらい大きいということです。

 日本のことが初めて文献資料に記載されたのは中国の後漢書東夷伝です。紀元後57年に後漢光武帝が、倭奴国の王に金印を授与したことが書かれています。もちろん日本と言っても厳密には倭奴国のことで、日本という国名が使われるようになるはずっと後のことです。倭奴国なのか、倭の奴国なのかはよく分かりませんが、この国が朝貢できたのは、徐福の末裔として高いレベルの知識を維持していたことによります。漢でも大いに驚かれたことでしょう。

 当時の日本の人口は100万人弱ですが、奴国は7万人を擁する最大の国でした。佐賀には奴国のほか、いくつかの有力な国があり、福岡や熊本などにも多くの国が存在しています。江戸時代になって、金印が何故福岡県の志賀島で発見されたのかは、知る由もありませんが、だからと言って奴国がその辺りだとするのはあまりにも短絡的です。どうなんでしょうか。いずれにしても、奴国の中心が吉野ヶ里遺跡に重なっていることは間違いありません。

 縄文人が独自の文化圏を築いている東北地方や、本州内陸部を別にすると、徐福革命の波紋は九州を中心に、瀬戸内海、山陰、近畿、東海などへと広がりを見せています。もちろん国と言っても、集落が大きくなっただけで、統治機構や制度も未熟な状況です。北九州を中心とした一帯が倭国と称されるようになるのはもう少ししてからです。ではありますが、中国の史書に記された2世紀後半の倭国大乱までは、平和で安定的な時代が続いています。日本人の平和ボケの気質がこのころから続いているとすれば、相当深く根付いていることになるかも知れません。

 ・・・つづく