日本建国通史

日本の建国について、4次元俯瞰という考え方を使って考察します。

034 高句麗(朝鮮)

 朝鮮半島と日本列島とは緯度的には大きな差異はありません。最も大きな違いは、中国から見たときに朝鮮半島は陸続き、日本列島は海によって隔てられている点です。中国の春秋戦国時代では、七雄の一つ秦は中原の西端を出発して、当初は西から東へ進み、そのあと南から北へ攻め入ります。人々の逃げる先は、東シナ海へ出て黒潮に乗ってどこかの島に渡るか、海沿い陸伝いに北へ向かうかのいずれかです。難易度的には陸伝いの方がはるかに容易です。しかし北には匈奴や後に高句麗を建国する騎馬民族がいます。やむを得ず遼東平原から右折して朝鮮半島に流れていきます。朝鮮半島では移動の原則に従って、徐々により良い環境を求めて南下します。漢は楽浪郡などを設置して朝鮮半島の統治を試みますが、半島南部までは及びません。

 さて、中国を除くと東アジアでは、高句麗が最初の統治機構を整えた国家です。漢が乱れた紀元前1世紀に建国されていますが、その様子ははっきりとは見えません。668年に唐によって吸収されるまで700年間に亘って存続した大国です。朝鮮史として記すのか、中国史の一部として記すのか微妙なところです。しかしながら言語的には彼らの話している言葉は朝鮮語(韓国語)のベースとなっており、日本語にも大きな影響を及ぼしていることが分かります。

 高句麗は後に高麗(こりょ、こま)と名乗ります。Koreaの語源です。また、彼らの子孫は日本にも痕跡を残しており、関東地方などには高麗や狛など関連する地名や人名などが多く残っています。にも拘らず歴史的な存在感は意図的に過小評価されているようです。どうしてでしょう。いずれにしても高句麗が日本建国に大きく影響したことについては見ておく必要があります。戦後の日本古代史学会で、大和朝廷騎馬民族征服王朝であるとの説は大きな波紋を広げましたが、今ではほぼ否定されています。しかしながら、騎馬民族が日本の建国に関わったことは間違いありません。

 さて、高句麗匈奴などと同じ遊牧騎馬民族によって建国されましたが、遼東平原へ侵出するなどして漢と厳しく対峙します。赤壁の激震後、漢が衰退すると徐々に版図を拡げます。目指すは中原、中華だったのかもしれません。そのあたりは北方遊牧民匈奴鮮卑なども同じような動きをしています。しかしながら魏や西晋などに阻まれて上手くいきません。

 その頃の朝鮮半島の様子は魏史韓伝に記されていますが、高句麗については高句麗伝として別に記載されています。邪馬台国などを記した魏志倭人伝とともに、いずれも魏の正史魏書の一部です。4次元俯瞰すると朝鮮半島南部と北九州の両地域は何となく状況が似ています。水田による稲作が進み人口が増加しています。大集落が点在して、ちょっとした諍いはありますが、比較的安定した暮らしぶりです。

 魏史韓伝には、馬韓弁韓辰韓三韓について詳しい記載があり、三韓の南は倭に接しているとしています。高句麗伝では、高句麗は王国で戦闘的であることなどが記されています。三韓とは雰囲気が違います。遼東平原、遼東半島を制した高句麗は、いよいよ朝鮮半島を南下します。

 ・・・つづく